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近藤 則生

2003年入社 / 生産部門

池田 貴

1962年入社 / 製造部門

運送業から始まった、
挑戦のDNA。

池田 − 池田紙工は、運送業から始まりました。町工場を巡り隣町の商店へと、作り手の想いを乗せて、それを必要とする人のもとへ届けていました。ある日創業者の池田富慶が、これからは「情報」を届ける事業、本をつくる仕事が発展すると考え、運送業の傍ら、小さな製本屋を立ち上げたのです。これが昭和34年、池田紙工の始まりです。

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「そんな場所で、
商売になるんか」。

池田 ー 昭和36年には、現在の埼玉県戸田市に戸田工場を新設しました。今でこそ賑やかな場所ですが、当時はここ一帯は田んぼしかなかった。「そんな場所で、商売になるんか」って、いろんな同業者から言われたらしいですね。

しかし、創業者の先見の明は正しかった。数年経つと、周囲には多くの製本屋さんがこぞってやってきたんです。さらに池田紙工は、他社との差別化を図るため、当時はどこも手作業だった丁合の機械化を検討して、専用機械を開発したんです。手作業では、一人1日500部が限度であった作業を、機械化により1時間4,000部、1日3万部も生産できるようになりました。さらに、技術の必要な厚物や大判の本を製作できる職人を育成し、飛躍的に業績が向上していきました。

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これからの製本を
考える時期にきている。

池田 − 私が入社したのが昭和37年。どんどん新しいことに挑戦する池田紙工は、すごく希望の持てた会社でした。しかし今はインターネットの普及もあり、業界は恐ろしいスピードで変化しています。印刷製本業が置いてけぼりを食ってしまうのではないかという人もいます。しかし、そういう状況こそ、大きな挑戦をできるチャンスです。何もない田んぼだらけの土地に工場を建てた時から、挑戦のDNAは変わっていません。

苦しいときこそ新しいことを始めるというのが池田紙工のやり方。これからどういうところに足を踏み入れていくのかということを考える時期にきているのです。

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マニュアルでは、
個性を出せない。

近藤 − 僕が製本業界に足を踏み入れたのは30歳のころ。池田紙工ではなく別の会社で、上製本と呼ばれる硬い板紙の表紙で綴じられた本を製作していました。今では全て機械ですが、当時の上製本は手仕上げが基本。手仕上げなので、それぞれの本に個性があったんです。背中の丸みや大きさが微妙に違う。「あの製本屋の傾向だよね」というように、会社の個性があった。そういう時代でした。その後、新しい環境で上製本で培った技術やノウハウを活かしたいと思い、池田紙工に転職しました。

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紙は生き物。
だからこそ楽しい。

近藤 − 入社してから数年は製本課や加工課で、丁合機に折本をセットしたり、断裁をしたりという業務を担っていただきます。その後は、機械の操作・管理をして製本ラインの全体を管理するオペレーターになることができます。しかし、私は必ずしも皆がオペレーターを目指さなくても良いと思っています。確かに、人をまとめる経験は成長につながりますが、それが個人の個性に合っているかどうかはわかりません。事実、僕は機械のことは一切わからない。それぞれに合った働き方を探していってほしいと思っています。

大切なのは、マニュアルに頼りきらないこと。マニュアルではいい本はできません。紙は生き物だから、水に弱いものや熱に弱いものなどがあるし、湿度や気温によっても違う。マニュアルに頼りきってしまうと、紙の変化に気づけないんですね。新しいものを生み出していくためにも、自分の感覚を大切にできる職人を育てていきたいと思っています。

最後に、僕がこれから池田紙工に入社してくださる方にお伝えしたいのは、物を作る喜びを知ってほしいということ。自分の関わった本を書店で見かけると、本当に嬉しいものです。世の中に情報を届ける仕事の尊さ、喜びを知ってほしいと思っています。

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